スイス、ヌーシャテル州ラ・ショー=ド=フォンでスイス人の父とイタリア人の母の間に生まれ、10代の頃から骨董品や古い機械式時計に魅せられた。1975年、ジュネーブ時計学校(Ecole d’horlogerie de Genève )に入学、3年以内に履修する単位を1年で修得し、卒業前から卓越した技術が注目された。当時は卒業時にロレックスが1本分のパーツを与えて自分で組み上げるというのが卒業検定のひとつとして存在したが、そのパーツにモジュールを追加し、永久カレンダーにした。同じ部屋で共に学んでいたアントワーヌ・プレジウソとともに首席で卒業した。
卒業後は主にオーダーメイドでの時計製作で自己資金を貯め、製作場所はパン工房の2階を改築して行っていた。独立時計師アカデミー会員となり、スヴェン・アンデルセンのもとでコレクターや博物館から依頼されたパテック・フィリップなどの数多くのマスターピースの修復作業を行う一方で独自の創作活動も続け、毎年のように複雑時計を発表している。スイスのジュネーヴ在住。
1991年11月、ジュエラーかつケースメーカーだったヴァルタン・シルマケスと意気投合しテクノウォッチを設立、フランク・ミュラーブランド製品の製造を始めた。当初は全数自社制作で高級時計メーカーとして知られるようになったが、1994年からベースムーヴメントにエタ製品も使用している。また、一部にはクオーツムーブメントも使用している。
1998年にフランク・ミュラー・ウォッチランドに社名変更し、S.I.H.H.(ジュネーブサロン)を離脱して独自の時計展示会W.P.H.H.(The World Presentation of Haute Horlogerie )を開催した。現在はピエール・クンツ、ヴァルタンの息子サスーンが設立したクストス、イギリスの宝飾品メーカーバックス&ストラウスを初めとする複数のブランドを所持するフランク・ミュラーウォッチランドグループとして運営している。それに伴い、アカデミーからは脱退した。
だが企業としての急激な拡張のためにフランク自身が経営に関わらざるを得なくなった結果、組織内で不協和音が生じ、2003年にシルマケスとフランクとの確執が生じたが2006年に和解にこぎつけた。現在ではシルマケスがCEOとなり、開発チームを二つに分けることによりフランクが時計開発に専念できるようになっている。
特徴としては複雑時計の他に、アンティーク腕時計に用いられていた「ビザン数字」を用いた文字盤、曲線を帯びた樽型の「トノー・カーベックス」などの独創的なケースなどが挙げられる。この他に「ラウンド・ヴィンテージ」などのように古典的なブレゲ数字を用いた時計もラインアップしている。このように、アンティーク時計の修理で培った知識と技術に基づくデザインを自作に取り入れている。ただし、商品が非常に高額にもかかわらず、独立系であるために人員・部品に限りがあることを理由として並行輸入品のオーバーホールを認めないなどの問題が指摘されている。
現在では、iPhoneのケースや宝飾品の製作、日本における結婚式のプロデュース(フランク・ミュラー ウェディングデスク)なども行っている。日本において「フランク三浦」と商標を争い敗訴した。
FRANCK MULLER(フランクミュラー)はその独特なデザインから通好みのブランドとして人気のある高級時計ブランドですので当店での修理実績も豊富です。FRANCK MULLER(フランクミュラー)の時計修理でお困りのお客様がいらっしゃいましたら是非とも当店へご相談ください。